昭和45年4月11日 夜の御理解     (末永信太郎)   №45-052


・・・(しんぶんみやこさん?)達夫妻の式年祭をここでさせて頂きました。石井清さんがなさった訳ですけれども。その中で頂きましたことがね、例えば、あの、お薄を頂きますね、お抹茶を頂きます時に、あの、それはヨウカンか、何か生菓子類がだいたいは良いんですけれども。黒棒というお菓子が、安いお菓子ですけれど、あれはもう、不思議によく合うんですよね。
 その黒棒と薄茶のを頂く。それから、あの、キュウリの、あの、味噌をつけた、あの、(もろきゅう)という、これは、まあ、(おつ)な料理の一つですけれども。そげなことを頂いて、まあ、いわば、キュウリということは、まあ、信心ということでしょうし、味噌ということは、味噌つけたという意味で、まあ、普通で言うならば、何か、ね、まあ、味噌つけたという悪い意味で使いますよね。
 けれども、信心というものは有り難いもので、そういう味噌をつけるようなことでも、その、ぴったり、そのキュウリと味噌が合うように、合うところに信心がある、と。または、あの黒棒というのは、ね、必ずしも高い物ではなくても、安い物でもね、かえって、その薄茶にぴったり合うようにね、というような意味の御理解を頂いたんですけれども。
 それを、もうひとつ、本当の意味を頂きますと、まあ、言うなら、まあ、ケチなお祭りという意味でしょうね。その、何て言うでしょうかね。だいたい、(せきよ?)さんちゃ、非常に理詰めが良い人ですし、まあ、どっちかち言うなら、まあ、ケチん坊さんですから、まあ、やっとかっと、した訳ですよね。それでも、やっぱり、あれだけのお祭りをさせてもらうには、相当、金もかかりますけれどもね。
 けれども、その、何ち言うでしょうかね。その、例えば、何とはなしに、それでいて、かえってぴったり合ってるわけね。ケチなお祭りでありながら、何とはなしに、そこに、それなりに有り難いお祭りを仕えさせて頂いたわけですけどね。だいたい、そのことは、どういうようなことだろうかと、私は、今日はまた、ほれは、そういう深い意味があると思っておりましたけれど、只今の御祈念の時頂いたらね、指輪をね、こう、いわば、手が小さいのに、大きながばがばする指輪でもいけないしね、と言うて、小さいのでもいけん、ぴったり合うという、まあ、自分の身に合うたようなね、その、お祭りを清さんは仕えたということなんですがね。自分の、まあ、言うなら働き程度から、あの程度のお祭りを仕えて、自分の身にぴったり合っておるようなことらしい。それで、一つも引っかかってない訳ですね、あの人はああいう信心の人ですから。
 こんなこっじゃ相済まんとも思ってないです。もう、これで十分と思うとる。そういう、その、大着な意味ではなくて、そういう、ぴったり合っておるところがね、おかげを頂いたんだという訳です。してみると、なら私どもが、んなら、そういう、その身分相応のお祭りをさせてもらうという事で、霊祭をさせてもらうといったようなことで、なら、良いかと言うと、信心はいわゆる、そうじゃないですね。
 それは、なるほど、ぴったりしたお祭りは仕えられ、御霊様も喜んで下さるだろうけども、本当、もっと喜んで下さるということは、御霊様に徳を送ってあげる、力をつけてあげる。自分自身も、そのことによって、徳を受けるというような生き方があるんですよね。
 それには、やはり、例えば、自分の言うならば働きからすれば、千円のお祭りで良いようなもんだけれども、私はせめて、せめてといったようなものです。つい、それが千五百円になったと致しましょうか。ね。それが、自分には合わない。けれども、合わないところだけは、お徳になるという事を頂くんです。ね。
 今日のは、その、ちょうど分に合うた。それに引っかかってないことが素晴らしいですね、この人は。はあ、こげなこっじゃいかん事はいかんち、もう、自分でも、こんなケチなことと思いよるとですけども、それで一つも引っかかってない。それは、あの人の日頃の信心だと思いますよね。
 もう、これでよかという風な。ただ、これでよかといったような頂き方は、信心じゃないように言われますけれども。これは、清さんの場合は、やっぱ良かったんですね。一つも、それによって、どうちゅうことはない。やっぱ、有り難いお祭りを仕えさせて頂いた。
 けれども、例えば、信心が本当に力を受けたいとか、お徳を受けたいとか。本当に信心の喜びを受けたいとか。本当に、御霊様にも力を一つ付けてもらわねばならんといったような思い一杯でする時にはです、どうしても、これだけでと思いよったけれども、ついつい、千円の経費をかけようと思いよったのが、千二百円になり、千三百円になって、溢れるほどしになって来るということ。ね。
 けれども、その溢れるほどしになって来ることが、おかげだ、それが徳になるのだと、こう言う。久留米の初代は、ない袖の人は振られんと言うけれども、ない袖の人を振ることが、お徳を受けるコツ合いだというような意味のことを教えておられます。ない袖は振られんと言うが、ない袖の下をまひとつ振れと、こう言っておられるですね。だから、信心を頂く、進めて行こうとする願いの者は、やはり、これで良いといったようなですかね、割り切った考え方でもね、だから、あの、それは悪いことはない、おかげは受ける。
 いわゆる、ドライな信心とでも言いましょうかね。それは、なるほどは、自分の身にピタッと合うた生き方で行っていいわけなんです。けれども、そこんところがです、少し、こう溢れるようなものが出て来る。それが、だいたい言うたら信心。これで済んだとは思いません、という思いがです、何とはなしに、その雰囲気の中からでも盛り上げられて来るという、それが、言うならば、お祭りの本当は内容でなからなければならないということですね。どうぞ。